自宅のある埼玉県所沢市から東京都練馬区まで毎月3回、10キロのアコーディオンを担いで通っています。「うたごえ」をこよなく愛するわたしを、野村さんに取材していただいたのが最初の出会いでした。2010年の夏のことです。
取材を通じて、野村さんの明るくて、ひたむきな人柄に触れました。「こういう青年がこれからの日本を背負っていくんだなぁ」 と、私もパスポートを手に米軍占領下の沖縄にわたった血気盛んだった頃の青春時代に戻った気がしたのを覚えています。
笑顔で快活な野村さんがいつも身近にいてくれること、しあわせです。わたしもささやかながら文化や福祉に関わっていますが、地方自治の役割がいまほど問われている時はありません。地方議員としての活躍にこころから期待しています。



自身の性に違和感おぼえたのは思春期のころ。好意をもった相手の性別に戸惑ったのを覚えています。「普通」への同調圧力と異性愛以外の者に不寛容な社会。家族や友人と一緒にいる時でさえ、そのなかで苦しさにもだえ、いままで息をひそめて生きてきました。

保育士になって15年。勤務条件の劣悪さから、これまで数えきれないほどの同僚が保育の現場を離れていった。専門職として小さな命の発達に向き合い、これほど神経をすり減らしているにもかかわらず・・いまだ「子どもと遊ぶ仕事でしょ」みたいな、傷つく誤解もある。

高齢出産が社会問題化する一方、望まない妊娠・出産を経験する未成年や若年層は依然として後を絶ちません。セックスと避妊にかかわる知識、身をまもる社会福祉を知らない多くが貧困と密接です。現場で感じるのは、女性がいまでも圧倒的な社会的弱者だということ。

東エルサレムのシェイク・ジャラで毎週末、占領や入植への抗議デモをしています。2015年春、イスラエル国政選挙の現地取材にひとりで来ていた説っちゃんが偶然そのデモを目にとめ、車から降りて陽気な英語で話しかけてきたのです。すぐに仲良くなりました。

説さんは声がおおきい。ないしょ話とか無理そうだけど、嘘がないなと思う。声かけ上手で聞き上手、わたしの心のなかを正確に見抜いてくれるスペシャリストだ。社会の隅っこで、ひっそりと生きている人たちを見落とさない、信頼できる身ぢかなお助けマンなのです。

バブル崩壊後の就職氷河期を経験した〝失われた世代〟。企業は新卒採用をしぶり、リストラや倒産、不良債権が社会に暗い影を落としました。経済的な事情もあり進学をあきらめ、上京したのは10数年前。6つ歳上の説さんと出会ったのはその頃です。

ひときわ明るい笑顔をわたしに見せてくれる説さんです。はじめて朝の桜台駅でニュースを受け取ったとき「ありがとう!うれしいです!行ってらっしゃい!」と声をかけてくれ、「なんて感じのいい人なんだー」(笑)と感心したのがきっかけ。以来、すっかり説さん推しになりました。

「世界の火薬庫」と呼ばれる中東/アラブ諸国。欧米の列強支配に苦しむ民衆の困難に、こころを寄せてきた友人です。机を並べて働いたことはありませんが、講演会などで顔をあわせたり、情報交換や資料の貸し借りなどをして助け合ってきました。